N/I ACADEMIA

【プロローグ】

この物語は、
人類が「便利」という名の幸福を追い求めた、その果ての物語である。

病は克服され、老いは止まり、
死は“管理可能な現象”へと姿を変えた。

人類はついに、永遠の命へ手を伸ばした。

それを可能にしたのが、
最先端テクノロジー―NI(ナチュラル・インテリジェンス)。

AIと並ぶそれは、身体は不要だということだった。

思考を補助し、感情を最適化し、
人の選択を“間違えない方向”へ導く存在。

争いは減り、悲しみは制御され、
世界はかつてないほど静かで、整ったものになった。

だがその代償として、
人類は少しずつ、確かに、何かを失っていった。

命が終わるという痛み。
限りがあるからこそ生まれる尊さ。
失うことを恐れ、守ろうとする想い。

そして――
誰かを愛する理由。

人は、死ななくなった瞬間から、
“生きる意味”を問わなくなった。

絆は計算され、
家族は配置され、
感情は数値として管理される。

それでもなお。

この世界には、
どうしても消せない衝動が残っていた。

理由のない違和感。
納得できない怒り。
説明できないほど、誰かを想う心。

それは、NIですら理解できない――

人間だった頃の名残。

これは、
管理された未来の中で、
「選び直す」ことを決めた少年の物語。

そして――
“心”を取り戻そうとした者たちの、
反逆の記録である。

【第一話 chapter1 -誤差の朝】

薄い光が、まぶたの裏に滲む。

トラはちは目を開けた。

脳内に、静かな通知。

【覚醒推奨フェーズ終了】

……もう朝か。

天井は何もない。
広告も、情報も、すべて遮断している。

母の声だけが、空間越しに届く。

「はち。
登校モード、まだ起動してないわよ」

「……今やる」

皮膚の内側が、わずかに熱を持つ。

制服パターンが体表に浮かび上がる。

だが胸の奥だけ、なぜか重い。

「最近、感情ログが荒れてる」

母の声は優しい。

だからこそ、逃げたくなる。

「……ログとか、見んなよ」

沈黙。

「あなたを監視してるんじゃない」

「でも見てるだろ」

言葉が、思ったより鋭くなった。

空気が少し冷える。

「……行く」

玄関の磁性ロックが解除される。

足部ユニットが自動固定される――はずなのに、
トラはちは一瞬、指で触れてしまう。

意味のない動作。

昔からの癖。

外に出た瞬間、声が飛んできた。

「相変わらずOFF多すぎだろ」

トラすけだった。

視界の端に、彼の存在データが自然に表示される。

「朝から全部ONとか、疲れねぇのかよ」

「便利だろ?
感情もノイズも、全部流れてくる」

トラはちは小さく笑う。

「だからお前、いつも楽しそうなんだな」

二人は歩き出す。

2097年の朝。

何も起きていない――
ように見えて、

トラはちの内部ログには、
すでに微細なエラーが記録されていた。

【原因不明/感情振幅増大】

この誤差が、
やがて“拳”になることを――
まだ誰も知らない。

【第一話 chapter2 -校門の向こうで、何かがズレている】

朝の通学路。

トラはちはトラすけと並んで歩いていた。
空は澄みすぎるほど青く、雲の動きすら計算されたように整っている。

「……今日、やけに静かじゃない?」

トラはちが言うと、
トラすけは少しだけ視線を上げた。

「登校時間帯の環境ノイズが、通常値より3.2%低い」

「なにそれ。気持ち悪い言い方」

「事実だよ」

そう言いながらも、トラすけの耳の内部センサーが
“説明不能”の微弱な揺らぎを拾っていた。

理由は出ない。
でも、違和感だけ残る。

そこへ――

「おはよーーーっ!!」

横から勢いよく割り込んできたのは、トラべえだった。

「今日さ、売店の新作パン、絶対当たりだと思うんだよね!」

「まだ食べてもないのに?」

「直感! 黄色の直感は当たるんだって!」

トラはちは思わず吹き出した。

さっきまで胸の奥にあったざらつきが、少しだけほどける。

「……相変わらずだな、お前」

「えへへ〜。それ褒めてる?」

三人が笑い合いながら校門に近づいた、そのときだった。

――校門前の空気が、ふっと変わる。

生徒たちのざわめきはある。
足音も、声も、確かに存在している。

それなのに。

どこか、感情の熱が薄い。

「……なあ」

トラはちが、無意識に足を止める。

「ここ、前からこんな感じだったっけ」

トラすけが校門脇のモニターに目を向ける。

出席管理、健康状態、精神安定指数――
すべてが“正常”を示している。

「数値上は問題ない」

「数値上、ね」

トラべえが首をかしげる。

「でもさ〜、なんか皆ちょっと“いい子すぎ”じゃない?」

その瞬間。

「……そこで立ち止まるな」

低く、腹に響く声がした。

振り向くと、生活指導のゲンロクが腕を組んで立っている。

「朝からボーッとするな。学校は戦場じゃねぇが、油断する場所でもねぇ」

「は、はい……」

トラはちは背筋を伸ばした。

だがゲンロクは一瞬だけ、三人の顔をじっと見た。

特に――トラはちの目を。

「……ま、無事に来たならそれでいい。行け」

その声には、怒鳴り口調とは裏腹な
“確かめるような温度”が混じっていた。

校舎に入ると、廊下は朝の光で満ちている。

その光の中で、
保健室の扉が静かに開いた。

「……トラはちくん」

呼び止めたのは、保健医のシズリだった。

「今日、少しだけ……波形が乱れてます」

「え?」

「大丈夫。今すぐじゃありません。でも――」

シズリは一瞬、言葉を探すように視線を落とす。

「“自分の気持ちじゃない感情”が混ざると、胸がざわつくことがあります」

トラはちは笑ってごまかした。

「そんな大げさな……」

「そうだと、いいですね」

その言葉だけが、やけに静かに残った。

教室に入ると、担任のカイザンが既に立っていた。

「着席してください」

教室が一瞬で静まる。

「本日の授業に入る前に、一つだけ」

カイザンは教卓に指を置いた。

「――“自由意志”とは、どこに存在すると思いますか?」

誰も答えない。

「脳か。心か。あるいは選択そのものか」

淡々とした声が続く。

「2097年の現在、人類は“選んでいるつもりで選ばされている”場面が増えました」

トラはちは、なぜか胸の奥がチリッと痛んだ。

理由はわからない。

けれど。

――この学校には、
――この日常には、

まだ名前のついていない何かが、確かに紛れ込んでいる。

窓の外では、雲一つない空が広がっていた。

あまりにも、完璧すぎる朝だった。